「差別だ!これを言ってはいけない!」と言われる事によって人々は言ってもいい事に付いても言わなくなる。
2013年 12月 12日
●2013年12月7日
京都朝鮮学校裁判を支える会 発足集会in東京3から
31:20~
裁判の途中の中で僕は忘れられない事が一つありました。
それはこの活動の中で被告達が言った事のうち、例えば「朝鮮学校というのは教育基本法に基づく学校じゃないんだ」と。
で、「学校って言うのは各種学校と同じなんだ」という主張だとか、或はさきから言っている「公園の不法占拠をしているんだ」という事について私が書面にまとめてですね、これは正当な言論だろうと、一つの政治的な意見としてそれを賛成するかどうかは別として、それを政治的な意見の表明だと認めないのはおかしいっていう書面を読み上げようとしたら意義が出ましてね・・「それは差別だー!」って言われたんだよな(笑)
被告側の弁護士からなあ・・(笑)
これは意味が分かりますかねえ?
それはその言葉自体が差別だから、それは法廷でも言っちゃいけないと。それだと法廷で差別がまた繰り返される事に成るとか言ってきてね。
それはおかしいだろうと。
少なくとも差別的な言論に付いて意見のぶつけ合いじゃなくて、ぶつけ合いで解決するっていうのは良くないって事を彼らは良く言うんですけれども、そういう事を理由にしてあげられるのは、「沈黙効果」って言うんですよね。差別的言論を投げかけられてしまったらそれは心が砕けてしまうから反論出来なくなってしまうと。
だからそういう差別的言論に付いては彼らの反応を期待して、ええ、、「言論なんだからお互いに言い合えばいいじゃないか」と。これ「対抗言論」と言いますけれどもね。
そこで「対抗言論で解決すべきだって言う人については差別的言論は当てはまらない!差別的言論は沈黙効果を伴うからだー!」っていう・・なんていうかな・・
「お前そこで言うかー!」って「おまえ弁護士やろー!」って。しかも96人の弁護士がおってやねえ、法廷の中で言われて、それ言い返されへんて言う様な事があるんかい!って噛み付いた事があるんだけれども・・彼らは本当にそういう風に思ってた訳で。
で、そういう事を思ってる弁護士がそれだけいてるって事ね。
だからね「人権擁護法案」てのは危ないなってその時初めて思いましたよ!
まあこれは差別的言論なのかどうなのかっていうところについて、弁護士が居るから法的な表現で客観的に判断されるんだって、やっぱこりゃ甘いなと。
それぞれが依拠してる運動論的な、或は政治的な立ち位置や立場によって何が差別なのか何が言ってはいけない事なのかということを決められちゃう。
彼らは沈黙効果があるから良くないって、、これは言論の自由で言論で解決出来ない事があるって言う事なんだけど、その事を理由にしてこっちに「お前喋るな」っていう事を言ってるわけですよね。喋るなって、、要するに差別を理由にする言論封殺なんだって危険を僕はそのとき初めて感じたんで、その危険があるって言う事はここにおられる方々には共有していただきたいなっていう風に思ってます。
で、スローガンで言えば「差別だ!」って、、「これを言ってはいけない!」と言われる事によって、人々はそのまま「言ってもいいかもしれない事」に付いても言わなくなる。
これを言ったら「差別だ!」っていう風に言われて糾弾されて1200万払わなあかん、て事になったら困るなってことになって言論を控えるわけです。
本当のことを言わない、本当に思った事を言わない、これを「萎縮効果」と言います。
その「萎縮効果」の方が差別言論が持っている沈黙効果と言われるものよりも大きいんじゃないか、という事を考えてまして。果たして沈黙効果、萎縮効果、いづれが言論にとって危険かということはひとつのスローガン的なまとめ方をしましたけれども、ここをよく考えてほしいなと。
私は「萎縮効果」の方がずっと問題だと、少なくともこの朝鮮学校の問題については思っています。
彼らは決してその事によって沈黙する様な事は今まで無かったと思います。
by koubou-ohayou
| 2013-12-12 01:10
| 京都朝鮮学校裁判を支える会